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切り拓いた夢への道
『週刊ベースボール』の2・25増刊号(写真名鑑のやつです)に
中日ドラゴンズの岡本真也投手の特集記事が掲載されてます。
「流浪の野球人」というタイトルなのですが、ずっと応援してただけに
その意味がとってもよくわかります。
彼は1974年生まれ。ぼくの1つ下なのですが
年齢が近いし、非常に厳しい道を歩んできているからこそ
非常に共感するものがあり、ずっと応援してます。

彼は京都の峰山高校出身です。そう、楽天の監督になった
野村克也さんの母校でもあります。
そこから佐藤工務店という会社に就職します。

それも、ようやく決まった就職先です。
龍谷大学のセレクションに落ち、新日鉄堺、大和銀行もだめ。。。
「野球を続けさせてくれる企業」というただひとつの条件を満たしたのが
この佐藤工務店だったのです。

しかし、ここは社業が優先で、野球はあまりできません。
確かに、このチームは強くなかったです。
不況のあおりを受け、結局野球部は廃部になってしまいます。

次に就職したのは阿部企業。
近鉄などで活躍した柴田佳主也投手もここの出身です。
しかし、出番が。。。
というわけで、退社してしまいます。

次に就職したのがヤオハンジャパン。
ご存知のように、ヤオハンは倒産してしまいます。
野球部がなくなるのも仕方がないところですが、今回は違いました。
岡本投手がエースとして都市対抗に出場しました。
休部となっても、彼の元にはオファーが殺到します。

ヤマハといった強豪チームからも誘われましたが、彼はクラブチームして存続となった
アムウェイレッドソックスに残留します。
収入はなくなり、仕送り生活となってしまいます。。。
しかし、彼はこの回り道を「あの1年は進むべき道だったような気がする」
と言ってます。
その1年で自分を見つめ、進むべき方向性などが見えたようですね。

スポーツ選手にとってのこの1年は非常に痛いはずですが
彼はそれをバネにしたあたり、強さを感じますね。

その時悟った「しっかりした社会人チームに進んでプロへ」の通り
彼はヤマハに移ります。名門チームです。
ヤマハで彼は結果を出します。在籍した2年とも都市対抗に出場。
ベスト4とベスト8でした。
確か、うちにこの時のビデオがあったはずです。

そしてついに2001年、中日にドラフト4位で指名され、入団します。
最初の2年は苦しみましたが、今や中日に欠かせない投手になりました。
ぼくがヤマハ時代に見た時は、どちらかというとコンビネーションで攻める投手でした。
まっすぐもあまり速い方ではありませんでした。
正直、大丈夫かなあと思ったりしました。もうちょっと速くならないと
プロの打者には早く見慣れてしまいかねないのでは、と。
それに、年齢が年齢です。結果が出ないと、早いうちに「整理対象選手」にならないか。。。
特に後者が心配でした。

しかし彼は、答えを出しました。
2003年の4月27日。神宮球場での試合で「150キロ」を出します。
確かに神宮のスピードガンは甘いです。
しかし、「150」が出たことは、彼が脱皮したことを示すのではないでしょうか。
努力が目に見えた瞬間ではないでしょうか。
本人も、これがすごく自信になったようですね。

そして2004年には最優秀中継ぎ投手賞を獲得。リーグ優勝に貢献します。
去年も優秀な成績を残し、中日に欠かせない戦力となりました。

ほんとに厳しい試練を乗り越えてきました。
夢を叶えるため、負けませんでした。
そして大輪の花を咲かせた。。。
回り道を「必然のもの」と意にも介しないその姿勢。
自分が進むべき道もこれだなあと思いました。
彼の存在を知ったのは確か阿部企業時代かな。
間違いなく、ヤオハン時代からは知ってます。
長く見てきてよく知っているだけに、とても励みになりますね。
by sidearm32 | 2006-02-14 19:29 | 野球・スポーツ
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